[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
エルは自然に目を覚ました。普段の彼は決して目覚めの良いほうではなく、部屋まで姉が起こしに来ることも珍しくなかった。しかしその日は夢のまどろみや布団のぬくもりに手をひかれることなく、寝台から身を起こすことができた。
頭を振ってわずかに残る眠気を追いだし、顔を正面に向けたとき、なにがエルを呼んだのか分かった。エルの勉強机の上に置いてある水槽の中で、一匹の金魚が死んでいた。その金魚は三年前の夏からエルに飼われていた。狭い盥の中、ポイを使って掬い取るものではなく、川に放流された金魚を、子供たち自身が川の中を跳ねまわり、全身を使って追いつめる催し物において獲られたものだった。もっともエル自身は一匹の金魚も捕らえられなかった。もともと参加した子供の数は主催者側の想定より多く、一人につき一匹の割り当てが約束されてはいなかった。そのうえ、目敏く魚の影を見つける子、上手に魚を包囲する子が一人で四匹も五匹も捕まえてしまうのだった。白熱した賑わいと狂乱の間で、エルは年長の少年に体を突き飛ばされ全身びしょ濡れになった。
エルが金魚を得たのは催し物が終わってからだった。散ってゆく人の波の最後に立ち去ろうとエルは思い、閑散とした河原の隅に座っていた。川の流れをさかのぼって視線を投じたとき、あくまでも『狩り』を楽しみ、獲物に執着がなかった兄弟が、こっそり川に金魚を放そうとしていた。エルは川を横切りその兄弟に近づいた。二人は咎められると思ったのか、不安まじりの敵意でエルを睨みつけた。兄のほうはエルが自分より年下であることに安堵し、不敵な笑みすら浮かべた。弟は水を含んで張り付いたエルの服を気の毒そうに見上げた。彼の半ズボンもいくらか色が濃くなっていた。
「なんだよ」
兄のほうが先に口を開いた。
「おはよう、姉さん」
「あら、珍しいわね」
アイは洗面台の鏡に向かって髪をとかしていた。思わず口をついて出た言葉が自分でも可笑しかったのか、はにかんで「おはよう」と言った。
アイは正確にはエルにとっての従姉にあたる。母親同士が姉妹で、そのどちらもがすでに無い。母親姉妹にとっての実母、アイとエルにとっての祖母が、二人の保護者となっていた。アイの父親はアイが生まれて間もなくに行方がわからなくなっており、赤ん坊を抱え一人で生計を立てることができなかった娘は、母親が営む宿屋に身を寄せた。アイの母親が不慮の事故で亡くなるまで、母娘三代で宿屋とそれに併設する食堂を切り盛りしながら暮らしていた。
エルの父親は都で役人として勤めていた。その仕事は主に郵送・運搬に関わるもので、都を離れ街から街へ、時によっては二、三カ月の旅程を経て遠くの村々まで手紙や物資を運ぶものだった。とうてい満足な子育てができる状態ではなかった。もともと病弱な体質だったエルの母親が亡くなった時、祖母はエルを引き取ることを申し出た。父親としては子連れで旅をしてでもエルを養育する気概はあったのだが、病気がちの妻を放ったまま仕事をし、そのうえで死なせてしまったという罪悪感が消えなかったようだった。義母に深々と頭を下げ、謝罪も感謝もできずに、「どうかよろしくお願いします」と言うことが精いっぱいだった。
アイは櫛を洗面台の棚に戻すと、セミロングのまっすぐな髪を後ろで一つにくくった。細い髪が首筋をさらさらと流れた。光を通した産毛が肌を淡く発光させ、薄茶の髪は優しげな金色の色を得た。少し横を向いて結び目を確かめたあと、アイは鏡の前でパチンと手を打った。
「いつもならこのあとエルを起こしに行くんだけどなぁ」
髪を結んだあとに手を打つのは、彼女にとって儀式のようなものだった。毎朝早くに起きて働く自分へ、気合を入れるための習慣だった。姉の独語を聞きながらエルは顔を洗った。金魚が死んでしまったことを伝えようとしたが、エルが顔を拭いている間にアイは洗面所をでていった。彼女はこれから祖母とともに新鮮な食料を買いにゆく。エルは調理場で泊まり客のためのブレックファストを用意するのを手伝わなくてはならない。コーヒーを注いだり、ヨーグルトを器によそったりする簡単なことから、スープの味付けや野菜を炒めることなど、調理に一通り関わる。そのため、よく手を洗ったあと、着替えとともに用意した黒いバンダナで髪を覆った。姉のまねをして鏡の前で顔の角度を変え、結び目を整えた。鏡の中の自分と眼があった。エルの瞳は光の加減で赤く澄んだ。
アイとエルの母方は、色素が薄い血統であるらしかった。祖母はすでに白髪の老人であるが、その肌は染み一つなく白く、瞳は高く澄んだ空色をしている。エルは祖母の姿を見ていると、高原に積もった雪とそれを照らす太陽を思い起こす。しとやかな風情に似合わず闊達な言動もそのイメージを手伝っているのかもしれない。アイは淡い光に包まれる髪と同じく、明かりがさすと底深く見える黄金色の虹彩を持っていた。もちろん肌も綿毛のように白い。エルはアイの母親に覚えがないが、やはりごく薄い色の髪質と瞳だったそうだし、その妹であるエルの母親に至っては脆弱さもあいあって、とてもはかない色合いの女性であった。顔にかかる陰影ですら、淡く滲んでいた。エル自身も例にもれず白い肌を持っていたが、それだけではなかった。バンダナの下に隠した髪は光にかざして確かめるまでもなく、白銀色を呈していた。エルは先天性色素欠乏症、いわゆるアルビノだった。白い睫毛に縁取られた瞳は、虹彩に色を持たず、淡紅色を映し出すのだった。
調理場に入ると、賄いの老女が前日に寝かせておいたパン生地を成形しているところだった。部屋の中央に置かれた広いテーブルに鉄板がおかれ、その上に等分されたパン生地が整列していた。彼女の後ろでオーブンが熱を上げていた。オーブンの横のガスレンジでは大きな寸胴鍋が火にかけられ、鶏肉の塊をくつくつと煮ていた。
「おはようございます」
「おはよう、エル君。今日は早起きなんですね」
老女は穏やかに笑いかけた。ふくよかな頬にえくぼが浮かんだ。丸みを帯びた指がリズミカルにパン生地をちぎっていた。エルは照れくささを誤魔化すため、「今日は何を作るんですか」と尋ねた。
「朝食はバターロールとハムエッグです。それから新鮮な果物をお出ししましょう。女将さんが卵と一緒にリンゴを少しいただいてくるっておっしゃってたから。このスープは昼過ぎまで煮込みます。皆さんがお目覚めになるまでもう少しあるでしょうから、パン生地を巻くのを手伝ってもらおうかしら。ランチ用にレーズンロールとシナモンロールも焼きますからね」
老女は丁寧な口調で語った。エルは手に粉をはたいて老女が丸めた生地を麺棒で伸ばしにかかった。老女は威勢のいい女将と対極に物静かな人なので、調理・作業の間は必要な指示以外おしゃべりをしなかった。エルもそれに倣い、黙々とパン生地を成形した。二人の動作が立てる音以外は鍋が湯気を上げ、オーブンがじりじりと熱をこもらせる音ぐらいのもので、心地よい静けさが調理場と宿を包んでいた。宿泊客はまだ夢をさまよっているようだった。
十五個のバターロール、二十五個のレーズンロール、二十個のシナモンロールがオーブンに入り、香ばしいバターと小麦粉の香りが漂ってきたところで、女将とアイが帰ってきた。アイはミルク瓶を右手に提げ、左手でリンゴの入った紙袋を抱えている。女将も両手いっぱいの紙袋を危なげもなく支えていた。茶色い袋からレタスと卵がのぞいていた。
「今日は鮒が安かったよ。香草焼きでも作ってもらおうかな」
女将はきびきびとした動作でカウンターに品物を並べ、アイがそれを所定の位置にしまった。
「今朝のお客様は六人だったね。そのうち一人が今日の夜も泊まってくださるよ」
「昨晩オイカワを釣ってきてくれた人よね。唐揚げおいしかったです」
アイが言った。後半はまかないの老女に向けたもので、老女はハムを切り取りながら「喜んでいただけてよかったです」と言った。そのあと女将と老女は今日の献立・予定について話をし始めた。二人は長年の親友だった。初めのころ、老女は宿が混雑したときに限り手伝いにきていた。やがて都と西の村身らを行き来する人が多くなるに従い利用客も増え、女将だけでは手が足りなくなった。そもそもアイとエルの祖母が宿屋を始めたのは、野宿をしのぐため屋根を貸してもらいたいという旅人への善意のためであった。祖母も、今はない祖父も、人をもてなすのが好きな人だった。大工であった祖父が母屋を建て増しするのと前後して、女将は老女にここへ正式に勤めにきてくれないかと頼んだ。老女は快く承諾した。住居も歩いて三十分ほどの湖のほとりから宿に更に近いバンガローへ越した。そのバンガローも祖父が作ったものだそうだ。アイやエルが生まれる前、ずいぶん昔の話だった。祖母はつれあいを亡くしたあとも、娘と宿を経営し、今は孫とともに働いている。すでに七十に近く、骨がつかめそうなほど痩せた体や浮腫んで皺のよった皮膚があきらかに身体の衰えを示していたのだが、張りのある声や颯爽とした立ち振る舞いが彼女の年齢を不明瞭に見せていた。
一通り確認が済むと、女将は水道水で台拭きを湿らせ、よく絞ってから食堂に向かった。本格的な掃除は夜のうちに済ませ、また朝食後、昼食前にするので、食堂の用意はテーブルを拭くだけで済むのだった。アイはお湯を沸かし、コーヒーを入れる準備をした。エルはその横でフライパンにバターを塗り、ハムエッグを作り始めた。食堂に宿泊客が訪れ、女将と朝の挨拶を交わしていた
地面を踏みしめると相変わらずカサコソと音がした。ときおり小枝を踏んづけるとぽきりと小気味よい音が鳴った。瞬間、エルははっとして空を仰いだ。中型の鳥がバタバタと羽ばたくところだった。エルは再び歩き出そうとして、歩を止めた。何か物音がした気がしたのだ。
耳をすませた。森の静寂がエルを包んだ。鳥の甲高い鳴き声、枝葉が風に揺さぶられる音。その他音源のわからない森の声をかすかに乱す異音が確かに存在した。不吉な響きを持つ音は、低いうなり声にも聞こえた。エルはあたりを散策してみることにした。肉食の獣が獲物を追い詰めている真っ最中である可能性、それどころかエル自身が標的になっているかもしれないという危険性も頭をかすめはしたが、好奇心が打ち勝った。木々の間でさざなみのように反響し、不気味な響きを得ているとはいえ、その音を発するものはエルの近くにいるはずだった。エルは踏みしめられた道から外れ、鬱蒼と茂った草木の間に入り込んだ。
胸の高さまで伸びている草を、皮膚を切らないように気をつけながらかきわけていった。エルが通った後の草は力なく倒れているので、元の場所に帰るだけなら心配はなさそうだった。途中、ネコ科らしき小型の動物がエルの出現に驚き走り去ったほか、エルの歩みを妨げるものはなかった。
唸り声は近付くにつれて不安を掻き立てる響きを消した。どうやら音を発するモノはエルの接近を感じ、己の気配を殺そうとしているようだった。呻き声ではなく、荒い息遣いがエルの左手側から感じられた。そちらのほうは踏みしめられる草ではなく、小さいながらもこんもりとした低木が密集した藪になっていた。
エルは藪の中を抜ける決心をした。体当たりさながらに木と木の間に身を躍らせた。耳を騒々しい音が打った。目に枝が突き刺さらないよう顔を両手でかばったが、頬に幾筋か傷がついた。藪を抜けきると勢い余ってふらついた。正面に視線を向けたとたん体勢を立て直す間もなく、身動きが取れなくなった。
エルの眼前にあったのは一本の大木だった。エルの散歩する道のりにある材木としてつかわれる木々と違い、太い枝が根元に近いところから分岐し、複雑に曲がりくねっている。幹が薄汚れて見えるのは、樹皮があちこち剥がれ、逆に残っているかたい樹皮が汚泥のようにしがみついているからだろうか。ところどころにウロがあき、より濃い陰を溜め込んでいる。壮大さよりも先に禍々しさを感じさせる樹だった。高さがいかほどなのかエルに測れなかったのは、根元のほうに視線が固定されてしまっていたからだった。
地を耕し、凸凹と隆起した樹の根に覆いかぶさるようにその男は存在していた。とっさにエルがその人物を男だと判断したのは、彼の筋肉が大変発達していたからだった。長い黒髪がかかりその広い肩と背中を隠していたが、布一枚まとわぬ男の肌は暗い青色に染まっていた。地面に伏せられた腕には立体的な紋様が浮き出ていた。それが鱗だと判断がつく前に、エルは男のまなざしを受けた。男の瞳を視認したエルは、いよいよ指先一つ動かせなくなった。男の眼球は、明らかに人間のものではなかった。
二つの暗い孔に蝋燭の灯がともっているかのようだ。その仄かなともしびでさえ水面に映った像のようにはかない。今にもその小さな光は闇にのまれ、男の眼孔から暗闇が煙のように滲み出てきそうだった。男はエルに顔を向け瞼を開いたのちは全く動きを見せなかった。深い呼吸を繰り返しながらエルを見据えていた。その間エルは息をするのも忘れ、男の瞳に魅入られていた。
男がエルから目をそらし、腕に力を入れようとするまでに経った時間は、それほど長くなかったが、エルには一晩の夜明かしのごとくに感じられた。実際男の視線から解放されてみると、徹夜明けの輪郭を持たない疲労に近しいものを得た。男は腕立て伏せの要領で上体を起こそうとしたが、「うぐ……ッ」と呻き声をもらすとともに肘が崩れ再び地に伏した。苦しそうな息遣いが響いた。男はわずかに身をよじって起伏の多い地面に体を安定させると、静かに目を閉じた。少なくともエルの前から身を隠すことをあきらめたようだった。エルは唾を飲み込んだ。自分を落ち着かせるため深呼吸を繰り返してみたが、これからどうすればいいのか見当がつかなかった。状況にのまれ、ただ立ち去るということすら思いつかなかった。
ただ呆然と木の根元を眺めていると、男の身体に変化が現れた。鱗のような模様が薄らぎ、肌から青みが消えた。浅黒い筋肉は十分逞しいものの、鱗に覆われていたときよりもいくらか萎んだように見えた。異様に発達した爪に覆われていた指も、節くれ立った普通の男性のそれになった。黒い長い髪だけが相変わらず豊かに波打って男の裸体を隠していた。
男の息は落ち着いたものになった。鳴き交わす鳥の声がエルの頭上に響いた。エルはあたりをゆっくり見渡し、そこに異形の男と自分しかいないことを確かめてから、踵を返し立ち去った。男は薄眼を開けてその様子を見ていた。わずかに唇が弧を描いたようだった。
十分後、エルは藪を一息で抜けると、異形の男がまだそこに横たわっているのを見て息をついた。男の背は緩やかな呼吸とともに上下していた。顔は長い髪に隠れてうかがえなかった。エルは両手で抱えていた風呂敷包みを地面に置き、膝をついて男の頬に触れようとした。
不意に男の瞼が開いた。男はエルの手首をつかんだ。エルはぎょっとして上半身をそらした。食虫植物に捕らえられたハエの気分だった。エルが何も言えずにいると、男が先に口を開いた。
「さっきの奴だな」
低く、朗々とした声だった。陰鬱でこもった声音を想像していたエルは再び驚いた。もう一つエルの予想を裏切ったのは、男の瞳の様子だった。眼球が人間のものになっていること自体は、男の身体が異形のものから一般の成人男性の体に変化したところで予測はついていた。エルが意外に思ったのは男の虹彩が深い黒に染まっていることだった。エルは宿屋で幾人もの客の顔を眺めてきた。緑の瞳、水色の瞳、薄茶の瞳。それぞれエメラルドやサファイア、琥珀に喩えるのだと姉から教わった。だが、こんな濃い色の瞳を見るのは初めてだった。その色は影のように染み出る気配はなかったが、わが身を浸して沈めてしまうのではないかとエルは思った。
「何をしに来た? 仲間を連れてきた様子はないが……」
エルに向けられつつも独白のようなニュアンスをもつ言い方だった。疑問は男の胸中に渦巻いているらしかった。長髪の下にいぶかしげな表情が浮びあがっていた。怪訝な顔はエルに詰め寄るためというよりも、単に不思議で仕方がないと言っているようだった。
エルは自由なほうの手で風呂敷包みを指さし、言った。
「怪我してるみたいだから、手当てをと思って」
男は思いっきり眉をひそめた。瞳に険が宿った。エルの手首の圧迫感が強まった。
「お前、俺の姿を見ただろう」
挑みかかる調子で男が言った。口元が歪められ、犬歯がのぞいた。獰猛な笑みでエルを睨みつける。
「恐くは、ないのか?」
「恐いけど……」
男の脅迫とも確認ともつかない言葉に恐る恐る答えるエル。
「今は人間と変わりなく見えるし……。だから、必要かなって」
「何が?」
「服」
裸形の男は一瞬毒気を抜かれたような顔をして、表情を強張らせた。そして絞り出すように一言、
「……感謝する」
と言った。
エルは手早く用件を切り出した。
「その金魚、くれないかな」
「お前、育てんの」
「うん」
レーズンロールを十五個作り、シナモンロールに取り掛かろうとしたところで女将とアイが帰ってきた。彼女はエルとアイの祖母、この宿の女将と長年の親友だった。当初はごく稀に混雑したときだけ手伝いに来ていたのだが、都と西の村々へ行き来する人が多くなるにしたがい利用客も増え、女将だけでは手が足りなくなった。女将にここへ正式に勤めにきてはくれないかと頼まれ、快く承諾し、住居も歩いて三十分ほどの湖のほとりから宿に更に近いバンガローへ越した。
≪ 血と雪 | | HOME | | 習作 ≫ |