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曲がった心は簡単にはなおらない。
とある本にそう書いてあって、僕はふっと了解したのだ。
また別の本には「心とはマッチ箱のようなもので、一辺に圧力がかかると歪んでしまい、スムーズな開け閉めができなくなる」とあって、これもまた僕の心に納得感を残したのだった。
そして自分をかえりみたとき、それなら仕方がないと、小さな諦観を手のひらで転がした。
手のひらを見る。両手を掬い取るような形にかざし、その空間に視線をはわせる。何も無い。僕の手はむなしい、と、これもまた深く響いた発見だった。
僕の心に根を張るものがある。喩え話だ。星の王子様に出てくる、バオバブの樹に侵食された星を思い描く。根が心を締め付ける、星の岩盤を割り砕く。そういう状況を感じる。しかし、と僕は思う。そこにバオバブのような立派な樹はないのだ。根を張り巡らすだけ張り巡らし、その植物は未だ地上に出ない。それは人目につかない、隠れたところに存在するのだ。いや、それもどうだろう。僕にもわからないのだから。何か僕の心に悪しきものが根を張って、開花するときを待っている。けれど僕にはわからない。それが本当に開花するのか、それは本当に悪しきものなのか。それが表面に現れたとき、世間は僕をどう思うのか。僕はその道の植物を、根こそぎ排除すべきなのか、それともその成長を助けてやるべきなのか。
そいつは初めから僕の心に存在したのだろうか。
それともかつて手のひらに握っていたものだったのだろうか。
僕の心のありようについて、僕は困ってはいない。どう云い繕ったってそれは、僕自身の心なのだから。
ただ社会的に困るのは、他人の心と相容れないということだ。人間は社会的な生物なのだと、これもどこかの本で読んだ。故に、僕は困っている。僕は僕が僕自身であることに抵抗を感じている。
マッチを擦りたい人が僕の心を手にとり、スムーズに開かないことに苛立って舌打ちをしたとして、僕にどんな弁明ができるというだろう。僕としてはスムーズにマッチを彼あるいは彼女に渡せなかったことを恐縮するしかない。二度と繰り返さないよう、とっさに人の手が届かないところに隠れるしかない。
隠れ続けていられるならそうするさ。しかしまたそれを望まない人が居る。僕が隠れ続けることによって、迷惑をこうむり続ける人が居る。
それに、と僕は思う。
思って、言葉が続かなくて、息が詰まる。「それに、」
僕は僕自身のために生きたいんだ
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