ヨモヒロ 懸巣=カケス の話 彼岸にて
部屋に一歩踏み入り初めに感じたのは、ざらりとした空気を醸す刺々しい気配だった。皮膚と筋肉が収縮し、足がとまる。充満し、散乱する波から、ヨモヒロは部屋の様子を見失った。
もともとヨモヒロはこの部下の部屋を苦手としている。
宮はどの部屋も内景と一通りの家具が統一されているうえに、すべて白砂から作られているのだから何を入れても色がない。誰が使用しても似たり寄ったりの殺風景さを保っているなか、唯一雑多な個室を作っているのがヨモヒロの直属の部下だった。
「懸巣?」
今、この室にいるはずの部下の名を呼ぶ。
風が砂を流す音か、人の発語や動作の音しかしない常夜において、この部屋で奏でられる音はどれだけひそやかであっても異常だ。特に聴覚が鋭敏に働いているヨモヒロにとっては騒音すれすれのノイズですらある。何かが回る音、何かが揺れる音、何かが跳ねる音、何かが動き続ける音、その何かが何なのか、ヨモヒロは一つも分からない。こもる音響く音、一定のリズムを刻む音、不安定な音、空中を揺らす音、地面に横たわり沈黙する音。地層深くに流れる水が滾々と溢れだすように、この部屋はヨモヒロが平素心に仕舞いこんでいる不安を引きずりあげた。
それでもこの部屋をおとなったのは、満ちる音が恐ろしいからなどという私情を挟んではいられない理由があったからだ。
普段以上に慎重に気配を探れば、懸巣が部屋の片隅にうずくまっているのを感じ取れた。
「どうした、どこか具合でも悪いのか?」
ふりまかれる敵意のようなものに警戒しながら近づく。一歩、二歩。自然に殺される足音。
『近づかないほうがいい』
声は特殊な波を帯びてヨモヒロの耳に届いた。足をそろえて止まり、懸巣と彼が背にする壁を注視する。光を感知する能力が低いヨモヒロの眼には、白砂の地平と夜闇の境が曖昧であるのと同様に、月に照らされて浮き出る白い壁と逆光に沈む懸巣の境界がわからない。
ヨモヒロの特異な感覚機能は、懸巣を包む影が膨張しはじめたように感じた。同時に部屋に波打っていた気配が凝固し、微弱な視力が黒い人影を結ぶ。編み出される視界はヨモヒロにしか感じ取れない錯視だ。影には横並びの二つの切れ目が入り、逆三角形の頂点にもう一つ、薄く大きな弧が描かれる。
『コイツは今、深い眠りについている』
「そうか、では起こさないでおこう」
応じる言葉を紡げば、影はゆるりと震えた。驚いたようにも、笑ったようにもとれた。
『てめぇ、おれの声が聞こえるのか』
「視力が弱いぶん耳がよくてね、普通聞こえないはずの声も聞きとれるようだ」
『生前からか』
「おそらくそうだろう。断言はできないが」
目を保護するゴーグルに手を当てながら答える。此岸と彼岸の間に横たわる川の水を飲んだヨモヒロには、すでに此岸で生活していたときの記憶は無い。此岸と彼岸を行き来する渡し守が語る世界の仕組みに、船に乗り合わせた人々が感心するなり恐れを抱くなり動揺を示す中、ヨモヒロは特に感慨を抱かなかったのは覚えている。その様子を見た渡し守が、「あなたはもう聞き及んでいたのでしょうけど」と笑いかけたことも。
そういったことを告げると、影は一層愉快そうに揺らいだ。
『渡し守に会う前に死後の世界を知ってるなんて、ちょっかいだされたどころか、彼岸のモノに引っ張られちまったんじゃねえの』
「かもしれないな。だとしても過ぎたことだ」
『確かに今更どうしようもないけどよ』
影の口調がわずかに沈んだように、ヨモヒロには感じられた。しかしそちらに気をかける前に、ヨモヒロは投げかけそびれていた疑問を口にする。
「ところで君は一体何なんだ? 懸巣とはどういう関係なんだ?」
燻る紫煙のように影は安定しない。われ知らず握りしめていた手を開き、ヨモヒロは体中に走る緊張を和らげようとするが、うまくいかなかった。懐中の短刀が鳴っている気がして服の上から手をはわすと、少しだけ落ち着いた。
『わかんねぇの? んなわけねーだろ、ソレと一緒だぜ』
機嫌を損ねたようにも相変わらず愉快そうにも思える雰囲気で影は言った。
ヨモヒロはしばし沈思黙考する。それは影の言葉が理解できなかったからではなく、思い当ることがすぐに浮かんだため、その考えの正しさの裏をとり、また否定するための沈黙だった。
ややあって、躊躇いがちにヨモヒロは口を開いた。
「……もしかして君は懸巣の……」
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